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Arena Condition

AM 10:15 March 1, '11(Tuesday)

 生憎の雨です。霧雨が降っています。今日は一日中降るようです。

 予報では、明日から晴れて週末まで良い天気が続くことになっていますが、この季節の天気は変わりやすいので、どうなるか分かりません。

 馬場は、ぬかるんでいますが、先週低いところに砂を盛って調整したせいか、水溜まりにはなっていませんので、天気が良くなれば回復が早いでしょう。

 今日は、月初めですので、ホースマンズコラムのコーナーに新しい記事が掲載されています。どうぞ参照して、皆様のライディングに役立てて下さい。

 

 「思想」

 毎日生きていくときに、その時その時に起きたことに対処したり、進むべき方向を選択したりしているもので、その選択は些細なことであったり人生に大きな影響を及ぼすような決断だったりする。

 対処や選択するとき、人は何かを規範として生きているもので、その規範が思想だ。
 その規範は、生まれ育った故郷や両親を一とする隣人の影響や、広くは国柄などの環境や経験によって養成される。

 画家が表現する色は、どんなに後天的に学習しても、育った土地土地の自然の色が基盤となってしまうもので、日本人には日本人の色があってフランス人にはフランス人の色があり、日本人にはフランス人が出す色は決して出すことができないそうで、その逆もできないそうだ。

 日本が戦後の貧困で混沌としていた頃は、この思想が議論の中枢に位置して政治や活動の規範となって、紛争や摩擦の原因になっていた。
 しかし、飽食の時代を迎えて久しくなった今日、それでも未だ飢餓の時代が記憶にあった頃は、その豊かさを実感していたものが、長く平和で飽食が続くと飢餓の時を忘却して、その結果、行動の規範となる思想を顧みなくなってきているといえる。

 飢餓の時代にあれほど寝食を忘れるほどに、人々の行動を束縛していた思想が、飽食になった今日忘却するとは誠に皮肉である。本来飢餓の時代は明日の生活で精一杯で、レジャーやファッションに向かうことができない状態であった筈で、況してイデオロギー闘争などに奔走する余裕などなかった。ところが、実際はその逆で人々は、飢餓の時代だから明日の米の飯を確保するために精一杯だったはずなのに、イデオロギー闘争は活発であったし、音楽やレジャーも工夫を凝らして生活をエンジョイしようと貪欲だったのである。

 飢餓の時代を振り返れば、思想に拘泥して大局観をもって寛大に対処することを忌み嫌って、豊かさを求める心こそが堕落であるというほどにストイックであった。これも行き過ぎではなかったかと思うが、今日の思想軽視もまた行き過ぎなのではないかと思うのである。

 同じ形態の社会体制が長く続くと、どうしても個人の主義主張がエゴイスティックになって様々な問題や事件を起こすものだから、その反動として全体主義的社会体制への傾斜傾向が現れ、個人の活動や行動の起点となる感情の出発点という観点を見失い、社会主義や共産主義の様相を強めてしまうのである。

 社会主義や共産主義という思想は、極めて人為的で自然思想ではないような気がする。何故なら、生命体の構造に反するからである。

 生命体の構造と社会の体制とを比較して考察することが、とても分かり易くするし、全体主義が如何に矛盾したメカニズムであるかを解明するのである。

 生命体は、細胞が心臓や肝臓や頭脳などの臓器や筋肉や腱や骨などの組織を作り、それらの臓器や組織が連携して機能し形成している。

 生命の最小単位である細胞は独立して活動するためにエナジーを獲得して、何らかの生産や活動して生きている。そして臓器や組織の一部としての役割を果たしている。
 そしてまた、臓器も組織もそれぞれ独立して活動し、且つそれぞれが連携して総合体である生命体として活動しているのである。

 総合体としての生命体は、最小単位である細胞も、細胞が組織する臓器や組織も、臓器や組織が連携して形成している生命体も、共通のベクトルを共有していて、そのベクトルは、生命体の維持増進であり、そして個の細胞より臓器や組織、臓器や組織より生命体という優先順を有しており、且つ個の生命体より種族の維持存続を優先するというベクトルもまた有している。

 個の集合体である生命体は、個は絶えず自己の存続より集合体を優先するが、決して集合体が個を優先したり顧みたりするということはないし、個の営みに集合体が介入して、個別に直接コントロールしようとはしないのである。

 そして外的要因から何らかの影響を受けたとき、生命体の維持増進が損なわれないように、互いに連携して対応する。また、能動的にそれぞれがそれぞれの機能を活かして、生命の維持増進できるように活動をする。
 また時として、個は集合体の存続のために犠牲になり、集合体は更に大きな集合体である種族の存続のために、犠牲になるのである。
 つまり、このようなシステムが生命体に組み込まれているということなのである。

 このように形成している生命体は、大脳が意識としてコントロールしている領域と、自律神経がコントロールしている領域とでその活動をコントロールして、生命活動をしている。
 90%以上の割合を占めているのが、自律神経でコントロールしている領域であり、意識レベルの領域は10%以下の割合でしかないのだそうだ。
 円の図形で考えてみると、円のほぼ全体を占有しているのが自律神経でコントロールしている領域で、円の表層を占有しているのが意識でコントロールしている領域と考えればいいのではないだろうか。
 しかし、意識は自覚症状をもっており、自律神経のコントロールしている領域は自覚症状をもっていないために、意識領域が全体を掌握しているような錯覚に陥るのであり、大脳の傲慢がここに生まれてしまう原因がある。

 大脳が意識的に、自律神経のコントロールしている領域に介入できる領域と、決して介入できない領域があり、特に生命の維持に重要な領域には、大脳が決して介入できないようになっている。

 そして、自律神経の領域は、生命体の維持増進のベクトルにより一貫したシステムによってコントロールされていているのである。
 意図的に心臓の動きを止めることができないように、どんなに頑張っても大脳が介入できないようになっている部分もあれば、呼吸を意識的に止めたり速めたり大脳が介入できる部分もあるのである。

 大脳が、自律神経でコントロールしている領域の活動や状態を、察知できるように感覚神経がその橋渡しをするように機能している。

 大脳の役割は、目的を持ったり活動の目標を持ったりすることで、移動の方法やスピードや目標や何時するかのようなことを決定することで、実際に行動するのは自律神経のコントロールによって活動をして、目的や目標を達成するという仕組みである。

 このとき大脳の役割をわきまえて、実際の行動を自律神経のコントロール下で行うように役割を分担して、大脳が領分を逸脱しなければ、全体がシステムに則って合理的に機能して、大脳の意図する目標を達成することができるのである。

 しかし、大脳が領分以上の役割を果たそうとして、自律神経の領分に介入すれば、介入した部分をコントロールすることはできるかも知れないが、それと連携して機能しなければならない働きまでを、大脳は知らないからコントロ-ルできないし、知っていたとしても反射神経でバランスをとるようなことは、大脳では絶対に介入できないので、結果的に全体のシステムが連動しなくなって、目的を達成することができないという結末を迎えるのである。

 細胞には細胞の活動のベクトルがあり、臓器や組織もまた独自のベクトルを持ち、そしてそれらの集合体としての生命体もまた、独自のベクトルを持っているもので、これらは生命の維持増進という思想を共有して、互いに関連して機能するようにシステム化しているのが生命体である。

 そこで、国家と各自治体、そして個人という関係もまた、同じように組成していることを忘れてはならないのである。

 各個人は、独立して増幅や維持というベクトルで活動するベクトルを持ち、個人の集合体である自治体は、やはり独立して、自治体の環境の整備や豊穣増幅のベクトルを持ち、またこれを阻害する恐れのあるものを排除する。
国家は、自治体の幾つが集合して形成し、国家全体の豊穣と維持存続のベクトルを持ち、これを阻害するものを排除する。
 そして、個人は、自治体を優先し、自治体は国家を優先するという思想を持つ。生命体が共有するベクトルがあるように、それぞれが独立して能動的活動して、個より集合体を、集合体よりももっと大きな集合体を、優先する。

 生命体をコントロールする機能として、大脳が行う意識的コントロールと自律神経がコントロールする無意識コントロールとに区分されて、互いが介入することなく関連しあって生命維持増進のベクトルが保たれるように、個人・自治体・国家もまた、互いの独立した活動のベクトルが連携して、互いが介入することなく機能しなければならない。

 目標や移動の目的や活動スィッチを押すかどうかを、国家や大脳が決定しても良いのだが、個人が独立して活動するベクトルに直接介入してはならないという思想を持って、個人や自治体の活動ベクトルに介入することなく独立性を保たなければならない。

 そして、細胞も組織や臓器も生命体も、倫理として持っている、細胞より臓器や組織、組織や臓器は生命体を、生命体は個の生命体より種の維持増進を優先するという思想もまた持たなくてはならないのである。

 国家は、国家が統括する全体を掌握して、達成することによって統括する全体が維持増幅するような目標を設定して、その方法を選択する。そして国家を構成する自治体は、国家の設定する目標を達成すべく自分の役割を独自の判断と能動的活動によって果たし、個人は、自治体の構成員として、自治体が果たさなければならない役割が果たせるように、独自の判断をして能動的に働く。

 生命体の最小単位の細胞は、独自に生命維持増進のベクトルを持ち活動して、集合体である臓器や組織を構成すると同時に、その集合体が健全に維持増進できるようになることによって、最小単位の細胞は、維持増進のために必要な栄養素や酸素の供給を受けることができる。

 国家の最小単位の構成員である個人は、独自にベクトルを持ち能動的に活動し、その活動が自治体である集合体の構成員として役割を果たすことになり、自治体や国家が形成されるのである。
従って、国家や自治体が設定する目標は、構成員である個人の行動を誘発するものでなくてはならないが、個人の能動的活動やベクトルに直接介入しようとしてはならない。
 何故ならば、個人同士の連携や自治体同士の連携や、個人と集合体である自治体や国家との連携性に偏りが起こり、システム障害が起きるのである。

 国家は、生命体の意識的コントロールできる領域、つまり大脳に該当して、自治体や個人が能動的に独自に判断をして活動するのは、自律神経がコントロールする領域に該当する。

 個が集合体を優先して集合体の存続のために自らを犠牲にすることを厭わない一方で、集合体は、より小さな集合体や個人の独自の判断や活動に直接介入してはならないのである。介入しようとしても、部分的介入することはできても、結局は全体を介入して活動をコントロールすることはできないのである。

 日本が第二次世界大戦に突入したように、メディアや一部の政治家が最初は画策して世論を誘導したが、一旦大衆が加熱してしまうと、メディアや政治家は、それに反したり抑制したりする言動をすれば身に危険が及ぶので、結局は大衆に屈服して戦争に突入するしかなくて、敗戦という自滅をしたのである。


つまり、国家が大衆迎合して、個人の活動や独立して持つベクトルに直接介入してはならないのであり、社会主義や共産主義は、個人の独立性を欠くものであり、自然思想とはいえない所以がここにあるのである。

 今、大学入試の会場から問題の流出事件が起きて、色々なコメンテイターがコメントしている。
 大学側のセキュリティーの遅れを指摘するコメントが多く、韓国に比べて、受験生を善人だという前提で試験制度を考えているのが可笑しいといっている。
 だからもっと金属探知機などを駆使して、しっかり対処せよというものだが、私は日本の誇りを失ってしまうことを恐れる。
 大学を受験する会場に金属探知機のない日本に、もっと誇りを持つべきではないかと思う。

 もし改善したいのであれば、受験そのものを廃止するようなアイディアが出ないものかと思う。
 
 願書させ出せば入学できるという制度は、如何なものだろうか。
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