Arena Condition
AM 9:30 Temperature 5℃ Humidity 67% 曇り March4,'15(Wednesday)
昨夜から今朝にかけての雨で、馬場は、不良コンディションに舞い戻ってしまいました。
今日は、最高気温19度ぐらいまでになるそうですが、今のところとても寒いです。
梅の花は、只今まんかいです。 梅は、桜と違って長いことはなを愉しめます。また、花のない季節に最初に付ける花だけに、初鰹のように新鮮で、待ちに待った春の訪れと共に、人々は愛でてきたようです。
私は、梅の花も大好きで、幹に葉の一つもないときに付ける花に、何故か気が引かれます。
「馬が良くなる」
何故、馬はトレーニングすると良くなるのだろうか。
何故、馬が良くなるのだろうか。何故、馬が悪くなってしまうのだろうか。
乗馬界の常識に、「上手い人が乗ると良くなる。」「下手な人が乗ると悪くなる。」のこの二つがある。
言い方を変えれば、「馬を良くできる人が、上手い人。」「馬を悪くする人が下手な人。」という定義にすると、上手い人が馬を良くすることができ、下手な人が馬を悪くするということは当たっているが、一般的にいわれているのとは少し違うように思う。
日本の乗馬界でいわれている上手な人でも馬を悪くする人がおり、下手な人でも馬を良くしている人がいるように思う。
それでは、馬を良くすることができる人とはどんな人で、馬を悪くする人とはどんな人なのだろうか。
人には、様々な乗馬の技量としてのレベルがあり、その主な技量とは、バランスや手綱捌きや推進力だろう。
つまり、バランスが良くても手綱捌きが上手くても推進力が旺盛でも馬を悪くする人がいて、これらの技量が乏しくても馬を良くできる人がいるということだ。
技量とは際限のないものだから、どんな技量の高い人でもその人より高いレベルの人から見れば下手な人になり、どんなに技量の低い人でもその人より低いレベルの人から見れば上手な人ということだから、どんなに高いレベルの人も下手な人であり、どんなにレベルの高い人でも上手な人だといえるのである。
つまり馬を良くする人には、技量のレベルに関係なく必ず守られていることがあり、馬を悪くする人にはこのことが必ず欠如していることがあるということだ。
このこととは、馬に対する信賞必罰に一貫性があるということだ。どんなにバランスが良くても、馬に対して信賞必罰に一貫性がなければ、馬は悪くなり、どんなに推進力が乏しくても、馬に対しての信賞必罰に一貫性があれば馬は良くなるのである。
ところが馬の反応に対しての信賞必罰に一貫性を持たせるには、馬の反応に対しての判断力がなければ、信賞必罰に一貫性を持たせることはできない。
馬の反応を見極めるには、馬の運動を感覚的に捉えなくてはならないので、乗馬の技量の低い人は中々馬の運動を的確に掴み取ることは難しい。
つまり、その人の技量以上に馬の運動を的確に捉えることはできないので、技量以上の要求を馬に対して求めれば、当然馬の運動を的確に捉えて、その運動が適正であるかどうかを判断して、信賞必罰に一貫性を持たせることはできないということである。
つまり、馬を良くできる人は、その技量の範囲で馬を反応させ、その反応が適正であるかどうかを一定の基準によって判断するから、結果的に信賞必罰に一貫性を持たせることができるのである。
一方、どんなに乗馬歴が長くバランスも良く推進力も旺盛であっても、自分の技量の範囲に関係なく馬に求めれば、当然一定の基準を以て馬の反応を適宜に判断することはできなくて、従って信賞必罰に一貫性を持つことができないので、馬を悪くしてしまうのである。
ライダーの技量以上のことを馬に要求することを、オーヴァーライドといいう。
オーヴァーライドする人は、必ず馬を悪くするし、オーヴァーライドしない人は、馬の反応に対して一貫性を以て信賞必罰をすることできる可能性を持つということになる。
オーヴァーライドしない人は、飽くまでも信賞必罰に一貫性を持つ可能性があるということで、必ずしも一貫性を持っているかといえばそうではない。
何故なら、馬の反応に対して一定基準を以て、訂正であるかどうかを判断して、その反応に対して信賞必罰をするという意識を以てライディングしなければ、馬を良くすることはできないからである。
従って、馬を良くすることができるライダーは、決してオーヴァーライドすることがなく、意識的に馬の反応の適正性を一定の基準を以て判断して、これに対しての信賞必罰が一貫性を以て徹底できるライダーだということになる。
昨夜から今朝にかけての雨で、馬場は、不良コンディションに舞い戻ってしまいました。
今日は、最高気温19度ぐらいまでになるそうですが、今のところとても寒いです。
梅の花は、只今まんかいです。 梅は、桜と違って長いことはなを愉しめます。また、花のない季節に最初に付ける花だけに、初鰹のように新鮮で、待ちに待った春の訪れと共に、人々は愛でてきたようです。
私は、梅の花も大好きで、幹に葉の一つもないときに付ける花に、何故か気が引かれます。
「馬が良くなる」
何故、馬はトレーニングすると良くなるのだろうか。
何故、馬が良くなるのだろうか。何故、馬が悪くなってしまうのだろうか。
乗馬界の常識に、「上手い人が乗ると良くなる。」「下手な人が乗ると悪くなる。」のこの二つがある。
言い方を変えれば、「馬を良くできる人が、上手い人。」「馬を悪くする人が下手な人。」という定義にすると、上手い人が馬を良くすることができ、下手な人が馬を悪くするということは当たっているが、一般的にいわれているのとは少し違うように思う。
日本の乗馬界でいわれている上手な人でも馬を悪くする人がおり、下手な人でも馬を良くしている人がいるように思う。
それでは、馬を良くすることができる人とはどんな人で、馬を悪くする人とはどんな人なのだろうか。
人には、様々な乗馬の技量としてのレベルがあり、その主な技量とは、バランスや手綱捌きや推進力だろう。
つまり、バランスが良くても手綱捌きが上手くても推進力が旺盛でも馬を悪くする人がいて、これらの技量が乏しくても馬を良くできる人がいるということだ。
技量とは際限のないものだから、どんな技量の高い人でもその人より高いレベルの人から見れば下手な人になり、どんなに技量の低い人でもその人より低いレベルの人から見れば上手な人ということだから、どんなに高いレベルの人も下手な人であり、どんなにレベルの高い人でも上手な人だといえるのである。
つまり馬を良くする人には、技量のレベルに関係なく必ず守られていることがあり、馬を悪くする人にはこのことが必ず欠如していることがあるということだ。
このこととは、馬に対する信賞必罰に一貫性があるということだ。どんなにバランスが良くても、馬に対して信賞必罰に一貫性がなければ、馬は悪くなり、どんなに推進力が乏しくても、馬に対しての信賞必罰に一貫性があれば馬は良くなるのである。
ところが馬の反応に対しての信賞必罰に一貫性を持たせるには、馬の反応に対しての判断力がなければ、信賞必罰に一貫性を持たせることはできない。
馬の反応を見極めるには、馬の運動を感覚的に捉えなくてはならないので、乗馬の技量の低い人は中々馬の運動を的確に掴み取ることは難しい。
つまり、その人の技量以上に馬の運動を的確に捉えることはできないので、技量以上の要求を馬に対して求めれば、当然馬の運動を的確に捉えて、その運動が適正であるかどうかを判断して、信賞必罰に一貫性を持たせることはできないということである。
つまり、馬を良くできる人は、その技量の範囲で馬を反応させ、その反応が適正であるかどうかを一定の基準によって判断するから、結果的に信賞必罰に一貫性を持たせることができるのである。
一方、どんなに乗馬歴が長くバランスも良く推進力も旺盛であっても、自分の技量の範囲に関係なく馬に求めれば、当然一定の基準を以て馬の反応を適宜に判断することはできなくて、従って信賞必罰に一貫性を持つことができないので、馬を悪くしてしまうのである。
ライダーの技量以上のことを馬に要求することを、オーヴァーライドといいう。
オーヴァーライドする人は、必ず馬を悪くするし、オーヴァーライドしない人は、馬の反応に対して一貫性を以て信賞必罰をすることできる可能性を持つということになる。
オーヴァーライドしない人は、飽くまでも信賞必罰に一貫性を持つ可能性があるということで、必ずしも一貫性を持っているかといえばそうではない。
何故なら、馬の反応に対して一定基準を以て、訂正であるかどうかを判断して、その反応に対して信賞必罰をするという意識を以てライディングしなければ、馬を良くすることはできないからである。
従って、馬を良くすることができるライダーは、決してオーヴァーライドすることがなく、意識的に馬の反応の適正性を一定の基準を以て判断して、これに対しての信賞必罰が一貫性を以て徹底できるライダーだということになる。
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