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AM 9:15 Temperature 9℃ Humidity 48% 曇り November 19, '12(Monday)

 ついに、今朝の気温が10℃を切りました。犬と猫の散歩のために外に出て、じっとしていると、手足が冷たく、指先が冷たさをとても感じます。


 どんより曇っていて風がないものの、季節は冬になったという感じがします。

 馬場は、まだぬかっています。


 

 「フラストレーション」

 大脳によるジャッジメントと感覚神経によるジャッジメントとに差がるとき、人は、違和感を持つもので、特に感覚神経によるところの方が、大脳によるところより劣勢な評価になったとき、歓迎せざる違和感を抱き、人によって異なるが一定の時間その状態が続くと、フラストレーションをためるようになる。

 大脳と小脳(感覚)とには、元々差があって、訓練しないとその差は一致することはない。

 大脳は、元々感覚神経がもたらす情報に基づいて何らかの判断を下すものなのだが、経験や知識が蓄積されることによって、大脳がリアルタイムにもたらされる感覚情報を無視して、蓄積した経験や知識に基づいて想像的に判断をしてしまうようになり、大脳の好む方向に寄り添った判断を下しがちになるのである。

 ところが感覚神経が判断を下すようになるのか、それとも脳の中に感覚情報をもとに判断する部分(小脳)があるのか知らないが、大脳に関与されずに判断するところがあって、私が勝手に便宜上名付けるとして、その感覚情報に基づいて判断を下す部分を感覚野(小脳)とすれば、経験や知識の蓄積によって大脳が勝手に判断を下すようになり、小脳(感覚野)と大脳の判断に誤差が生まれるようになるのである。

 つまり、最初は、小脳が感覚情報に基づいて判断した評価を、大脳が採用していたのに、知識や経験を積むことによって、大脳が小脳の判断を採用せずに、大脳が勝手に判断を下すようになるのである。

 しかし、我々人間は、大脳と小脳のどちらに自己認識が宿るのだろうか。

 小脳に自己認識が宿るのであるが、人間が幼少期の感情の支配率の高い時期を過ぎて成長すると、徐々に自我の目覚めとともに理性や論理性が発達してきて、大脳の働きが大きくなるとともに、大脳が自己を支配するようになり、小脳の判断を軽視するようになるのである。

 そして、大脳が支配するようになるに連れて、自己が大脳に宿っていると思い込むようになり小脳の判断が潜在化するが、それでも大脳に関与されないので、冷静になれば、何時でも小脳の声を聞くことができるのである。

 大人になってから始めたものは、特に大脳によって蓄積されたものでものを見る癖が付いてしまっているので、小脳による感触などの感覚情報に基づいた感想を無視して、これまでの経験や知識に束縛された判断を下してしまうのである。
 つまり、新しい発想や創造ができなくなるのである。

 ところが、元々自己認識が小脳に宿っているので、客観的事実が大脳の思惑に沿った結果でない場合に、どんなに大脳が作文しても、心の深層に潜在化している小脳の判断を無視することができなくて、その誤差が、すっきり感がないとか納得がいかないとか手放しで喜べないとかのような違和感を抱くようになり、ある一定の時間この状態が継続すると、その誤差がフラストレーション化するのである。

 つまり、フラストレーションは、小脳の叫び声なのである。

 結果に対する判断を曖昧にしたり人為的に納得しようとすれば、感覚的にしっくりしなかったり心のそこからの納得感がなかったりするから、大脳と小脳の判断に誤差が生まれるのである。

 小脳が納得するような結果を生むためには、訓練して心底納得できるような精度を生み出せる能力を身につけなくてはできない。

 その能力を身につけるためには、結果において妥協を許さずに、納得感が生まれるまで追究するだけのことで済むものなのだが、恐怖や不安を克服するために才能や勇気や努力や忍耐力が必要だと思いがちなので、誰でもがこれらを避けて納得する結果を得たいと思うものだ。

 しかし、勇気や努力などが必要ではなくて、小脳を鍛えて感覚情報をきめこまかに把握できるようにすれば済むことなのである。
 ここで誤解が生まれるので敢えて説明すれば、勇気や努力は必要ではないが、結果に対する追究を曖昧でいいということではなく、勇気や努力を出さなくても納得いく結果を出すために、不安や恐怖することなくそのスピードやアクションに絶えられる工夫が必要なのであり、そのスピードや不安を避けて通るということではない。

 ハイスピードや激しいアクションをしても、恐怖や不安を感じなくなるような訓練をしなくてはならなくて、そのために一般的に考えられていることは、勇気を出してハイスピードや激しいアクションに耐えなくてはならないということだが、そうではなくて不安を感じないスピードやアクションにおいて、その精度を徹底して高めるような訓練をすることが必要不可欠なのであり、精度が高まれば、ハイスピードでも激しいアクションでも、その時は不安も恐怖も感じなくなれるのである。

 勇気や努力や才能や忍耐など必要ではないが、求める結果を程度の低いものでいいということではない。

 ところが、勇気や努力や忍耐や才能が必要だと考えて、それを避けて通るために、求める結果もまたレベルを下げてしまえば、どんなに大脳で作文して納得してしまおうと思い込いこんでも、感覚情報に基づいて客観的判断を下している小脳の評価とドンドン誤差が開くものだから、フラストレーションが大きくなって、慢性的虚脱感や意欲の減退が起きて、覇気を失って活力のない日々を過ごすようになるのである。

 これらの様相を来す始まりは、結果に対する判断を大脳に委ねて、思惑に沿うような結果にならずとも、そうそう悪くはないとか成功とまではいえなくとも失敗というほど悪いものではないというような、ご都合主義のような判断を下すことなのである。このことは、大脳の判断に身を任せることであり、小脳の判断を軽視していることなのである。

 こうした、大脳の判断を優先することを一回でもすれば、全てにおいて大脳支配を許すことになって、状況に対する客観的情報である感覚情報に基づく小脳の判断を軽視したり無視したりするようになり、大脳と小脳とに誤差が生まれフラストレーションを生むのである。

 これらの事態から脱したり陥ったりすることを防ぐには、単純なことでできるもので、結果に対する評価を小脳の判断を優先するだけで良いのであり、心底納得できる結果でしか「良い」という判断を下すことはしないということである。

 小脳によるところの判断は、誤魔化すことはできない、どんなに主観によって大脳が関与しようとしても、小脳の判断を曲げることはできないのである。本当に納得できたという感触を得るには、小脳が納得しなければできないことなのである。

 そしてその小脳の声は、何時でも誰でも聞くことができるもので、手放しで喜べるのか心を解放してやれるのかを問えばいいことで、神経が衰弱するほどの集中をしたり、過酷なまでに精神や肉体を鍛えたりすることでしかできないとすれば、それは間違った訓練法であり必要のない努力だといわざるを得ない。

 一番初歩的で簡単で単純なことの精度を、心底納得できるまで徹底して追究すれば、その時が来れば過酷な訓練も才能も努力や辛酸も必要なく、難度の高いことを難なくやり遂げて、心底納得いく結果を誰もが出せるようになるのである。

 そしてそうなったとき、未熟で配慮の足りない人に対しても、肝要な懐の深い眼差しを向けることができる度量を、示すこともまたできるようになるのである。
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