Arena condition
AM 9:20 Temperature 35℃ Humidity 37% 晴れ July 17, '12(Tuesday)
3連休お疲れ様でした。
今朝は、もう35℃あります。この季節は、気温と湿度の数字が同じ数字になります。
雨が心配されましたが、結局馬場に水を撒きながらで、良い天気に恵まれた連休でした。
今回のクリニックで、大変強く感じたことは、日頃何らかの課題をもって、自分なりに答えを探している人は成果が出るものの、クリニックに頼って答えを与えてくれると思っている人には、答えは見つからないようです。
口を開けて餌を入れてくれるのを待っている人には、永遠に何を自分は食べたいのか、今何を食べることが必要なのかという疑問を持って生きていないから、何も自分のものにならないし、そんなわけだから自信を持つということがなく、何時も情けない思いをしてしまうのである。
何でも良いから、足掻いて足掻いて、自分だけの答えを見つけるという決心をして、がむしゃらに人と同じでなくても良いし、全く誰とも共通しているところがなくても良いから、自分だけの答えを探してやろうという勇気と気概がなくては、何ごとも上手くいかないのである。
目の前に美味しい食べ物があっても、気付かないのである。
「善行」
人間は、何故善行を成したいと考え、できないことによってフラストレーションや罪の仮借に苛まれるのだろうか。
後天的に家庭環境や親の躾けなどによって、成長に伴い徐々に倫理観や思いやりや社会に対する貢献という意識を、心の中に宿して増殖させていくものなのだろうか。
それとも、先天的にDNAに組み込まれていることで、育ちや教育とは全く関係なく、人は生まれたときから善行へと誘われていく生き物なのだろうか。
現在の人間のルーツは、ホモサピエンスといわれる種族だそうでアフリカで生息していたそうです。ネアンデルタールや北京原人とは違うのだそうです。
我々の人間のルーツであるホモサピエンスが住んでいたアフリカのある地域で、火山の爆発が連鎖的の起こり、空高く舞い上がった噴煙は何年もの間、地上に降り注ぐ日光を遮り、植物は枯れそれを食べる動物も死に絶える始末で、食物は枯渇したのだそうです。
最初の内は、限られた食糧を奪い合って戦いが起きたのだそうだが、その内に少ない食べ物が自分の手にあるときは、他の人に分けて、自分にないときは他の人から分けてもらうということが始まったらしいのです。
このとき人類は、自分達のファミリーやグループ以外の人達と食べ物を分配するということがそれまで全くなかったのに、火山の噴火によって起きた危機に直面したとき始まったそうです。
また、そのホモサピエンスは、離乳食を発明することによって、子育てのために授乳する期間を短縮できた。授乳期間を短縮することが可能になったことによって、次の妊娠を早めることになって、爆発的に人口が増加したのだそうです。
人口が急激に増加すれば当然食糧が不足して、人間は農耕を始めるようになったそうなのです。そして小麦などを栽培するようになるのだが、収穫率が可成り悪かったので、可成りの長い期間で品種改良をして収穫量を増やすことに成功するのだそうです。
そして、農耕が盛んになると略奪や種族間で耕作地の争奪が始まり、戦争が起きたのだそうです。この頃集団生活の中で一定の規律が生まれて、その規律を破ったものを罰するということが始まり、初犯は足を傷つけ、2回目は、腿のあたりを傷つける罰を与え、第3犯は、胸に槍を刺して殺すということになったのだそうです。
この風習は、現在でもオーストラリアのアボリジニ人の中に見ることができるそうです。
さて人間の善に対する意識は、どうも食糧危機に直面したことに端を発しているようです。その後は一定の規律を犯したときに課せられる懲罰に拘束されて、守られるということが始まって保証されるようになったといえるでしょう。
つまり、善行は、最初は何ら懲罰に拘束されて始まったのではなく、サバイバルとして争うことより、分かち合うことの方が合理的で有効だと考えた知恵によるものであった。その後、懲罰によってその善行を拘束して、集団生活を規律したということでしょう。
善行とは、相手を生かすことによって自分も生き残るということなのである。自分の生きることを先行したのでは、善行は成り立たず、共に死んでしまうのであり、自分の生きることを先行すれば、当然相手も自分の生きることを先行するから争いになる。相手の生きることを先行するから、相手もまた相手の生きることを先行し、善行が成立するのである。
危機に瀕したとき、自己犠牲の可能性を予知しても、相手を生かすことを先行するというのが善行で、そして自分もまた相手の善行によって生きることができるということだろう。
相手の善行を誘引するために、自らの善行を先行するということで、人間は有史以前の教育とか躾とかいうものがなかった時代に、既に善行を実施して相手と自分を同時に生かす知恵を身につけたのであり、自らが行きたいと欲すれば、先ず善行を以て成すことを考えるということである。
つまり逆説的には、自ら生きたいとか何ごとかを欲する気持ちをもっていない人の善行は期待できないということになる。
ある意味、生存欲や物質欲や名誉欲や出世欲などの欲望をもっている人に善行は期待できるが、欲望の薄い人や意欲のない人には、あまり善行を期待できないということであり、信用できないということである。
ある実験で、利益を得たいと思う人ほど、自分だけ利益を得ることに良心の呵責を強く感じ、利益の分配を図ることによって、人は殆どの人が満足感を覚えるそうなのである。
つまり今の社会的風潮やマスコミが作っている理性や倫理観とは、本来の善行とは真逆で、本来の善行から考察すれば、子供の内から、人間としてのあるべき欲望の実態を自覚させた方が、より善行をなそうとする意識を養成できるのであって、自己犠牲や欲望の抹殺を教育や躾によって拘束しようとすれば、善行への意識を同時に抹消してしまうことに繋がるのである。
善行と欲望は、一体的に人間に備わったものであって、他の動物には一切見られない素質なので、本来人間が成長するとき自我の目覚めと共に起きる性欲や物欲やバイクに乗りたかったり車に乗りたかったりすることを、何らかの方法で満足させることによって、子供達は同時に善行を身につけて、いじめやストーカーなどいう犯罪行為を撲滅できるのである。
3連休お疲れ様でした。
今朝は、もう35℃あります。この季節は、気温と湿度の数字が同じ数字になります。
雨が心配されましたが、結局馬場に水を撒きながらで、良い天気に恵まれた連休でした。
今回のクリニックで、大変強く感じたことは、日頃何らかの課題をもって、自分なりに答えを探している人は成果が出るものの、クリニックに頼って答えを与えてくれると思っている人には、答えは見つからないようです。
口を開けて餌を入れてくれるのを待っている人には、永遠に何を自分は食べたいのか、今何を食べることが必要なのかという疑問を持って生きていないから、何も自分のものにならないし、そんなわけだから自信を持つということがなく、何時も情けない思いをしてしまうのである。
何でも良いから、足掻いて足掻いて、自分だけの答えを見つけるという決心をして、がむしゃらに人と同じでなくても良いし、全く誰とも共通しているところがなくても良いから、自分だけの答えを探してやろうという勇気と気概がなくては、何ごとも上手くいかないのである。
目の前に美味しい食べ物があっても、気付かないのである。
「善行」
人間は、何故善行を成したいと考え、できないことによってフラストレーションや罪の仮借に苛まれるのだろうか。
後天的に家庭環境や親の躾けなどによって、成長に伴い徐々に倫理観や思いやりや社会に対する貢献という意識を、心の中に宿して増殖させていくものなのだろうか。
それとも、先天的にDNAに組み込まれていることで、育ちや教育とは全く関係なく、人は生まれたときから善行へと誘われていく生き物なのだろうか。
現在の人間のルーツは、ホモサピエンスといわれる種族だそうでアフリカで生息していたそうです。ネアンデルタールや北京原人とは違うのだそうです。
我々の人間のルーツであるホモサピエンスが住んでいたアフリカのある地域で、火山の爆発が連鎖的の起こり、空高く舞い上がった噴煙は何年もの間、地上に降り注ぐ日光を遮り、植物は枯れそれを食べる動物も死に絶える始末で、食物は枯渇したのだそうです。
最初の内は、限られた食糧を奪い合って戦いが起きたのだそうだが、その内に少ない食べ物が自分の手にあるときは、他の人に分けて、自分にないときは他の人から分けてもらうということが始まったらしいのです。
このとき人類は、自分達のファミリーやグループ以外の人達と食べ物を分配するということがそれまで全くなかったのに、火山の噴火によって起きた危機に直面したとき始まったそうです。
また、そのホモサピエンスは、離乳食を発明することによって、子育てのために授乳する期間を短縮できた。授乳期間を短縮することが可能になったことによって、次の妊娠を早めることになって、爆発的に人口が増加したのだそうです。
人口が急激に増加すれば当然食糧が不足して、人間は農耕を始めるようになったそうなのです。そして小麦などを栽培するようになるのだが、収穫率が可成り悪かったので、可成りの長い期間で品種改良をして収穫量を増やすことに成功するのだそうです。
そして、農耕が盛んになると略奪や種族間で耕作地の争奪が始まり、戦争が起きたのだそうです。この頃集団生活の中で一定の規律が生まれて、その規律を破ったものを罰するということが始まり、初犯は足を傷つけ、2回目は、腿のあたりを傷つける罰を与え、第3犯は、胸に槍を刺して殺すということになったのだそうです。
この風習は、現在でもオーストラリアのアボリジニ人の中に見ることができるそうです。
さて人間の善に対する意識は、どうも食糧危機に直面したことに端を発しているようです。その後は一定の規律を犯したときに課せられる懲罰に拘束されて、守られるということが始まって保証されるようになったといえるでしょう。
つまり、善行は、最初は何ら懲罰に拘束されて始まったのではなく、サバイバルとして争うことより、分かち合うことの方が合理的で有効だと考えた知恵によるものであった。その後、懲罰によってその善行を拘束して、集団生活を規律したということでしょう。
善行とは、相手を生かすことによって自分も生き残るということなのである。自分の生きることを先行したのでは、善行は成り立たず、共に死んでしまうのであり、自分の生きることを先行すれば、当然相手も自分の生きることを先行するから争いになる。相手の生きることを先行するから、相手もまた相手の生きることを先行し、善行が成立するのである。
危機に瀕したとき、自己犠牲の可能性を予知しても、相手を生かすことを先行するというのが善行で、そして自分もまた相手の善行によって生きることができるということだろう。
相手の善行を誘引するために、自らの善行を先行するということで、人間は有史以前の教育とか躾とかいうものがなかった時代に、既に善行を実施して相手と自分を同時に生かす知恵を身につけたのであり、自らが行きたいと欲すれば、先ず善行を以て成すことを考えるということである。
つまり逆説的には、自ら生きたいとか何ごとかを欲する気持ちをもっていない人の善行は期待できないということになる。
ある意味、生存欲や物質欲や名誉欲や出世欲などの欲望をもっている人に善行は期待できるが、欲望の薄い人や意欲のない人には、あまり善行を期待できないということであり、信用できないということである。
ある実験で、利益を得たいと思う人ほど、自分だけ利益を得ることに良心の呵責を強く感じ、利益の分配を図ることによって、人は殆どの人が満足感を覚えるそうなのである。
つまり今の社会的風潮やマスコミが作っている理性や倫理観とは、本来の善行とは真逆で、本来の善行から考察すれば、子供の内から、人間としてのあるべき欲望の実態を自覚させた方が、より善行をなそうとする意識を養成できるのであって、自己犠牲や欲望の抹殺を教育や躾によって拘束しようとすれば、善行への意識を同時に抹消してしまうことに繋がるのである。
善行と欲望は、一体的に人間に備わったものであって、他の動物には一切見られない素質なので、本来人間が成長するとき自我の目覚めと共に起きる性欲や物欲やバイクに乗りたかったり車に乗りたかったりすることを、何らかの方法で満足させることによって、子供達は同時に善行を身につけて、いじめやストーカーなどいう犯罪行為を撲滅できるのである。
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