Arena Condition
AM 9:15 June 30, '11(Thursday)
6月も今日で終わりです。
今朝9時現在で、36℃ありました。今夜雨があるようですが馬場はからからに乾燥しているので、これから水を撒きます。
「トップを目指すことができない理由」
人は誰しもがトップを目指したいと考えているものだが、「私は、競争するのが嫌いだ。」とか「人と競争することに意味がない。」とか「トップになることではなくて、世界に一つだけに花のように、オンリーワンを目指したい。」とかもっともらしい理由を付けて、自らを高めることから離脱するのである。
トップを目指して自らを鍛えていくことを遮る理由は、いくらでも見つかるもので、人間は小学生に始まって大学まで多くの学問を学んだ挙げ句、自らを、トップを目指して訓練することから離脱することを、正当化する理屈を表現する術を身につけるのである。
自らを向上させるために訓練するということは、苦しいことでもなければ忍耐を必要とすることではない。
極めて人生をエンジョイするために、必要不可欠なことなのである。
昨日のテーマにしたように、記憶しなくてもしたのと同じ結果を出すようにすることだったり、一生懸命しなくてもしたのと同様以上の成果を出すことであったり、勉強しなくてもしたのと同じように物知りになったりするように、工夫を考えることなのである。
つまり最低の記憶と努力と勤勉とによって、最高の成果を上げる事ができる秘策を考えることが、トップを目指すことであり最高の技術や思考力や能力を身につけるということなのである。
最高レベルの努力をして最高レベルの技術を身につけるのは当たり前で、誰にでもできることではないのである。
つまり当たり前のことは、実は当たり前のこととは程遠いのである。
世間一般の常識としていわれている一所懸命努力して、誰よりも努力して誰よりも高い能力を身につけるという当たり前の論理は、たった一人しかトップの座を得られない方法なのであり、外の全員は誰よりも努力をしようと一生懸命勤めたのに挫折するのである。しかも誰もができるような安易な方法ではないのである。
だから、長いこと勉学に努めた結果身につけた能力を、トップを目指して努力しない理由の正当性を巧みに言い訳するためにしか使わないようになってしまうのである。
外の誰よりも努力しないで、最高の能力を身につけるように工夫することは、誰でもが簡単にできることだし、多感になることができるし、何よりも感じた感覚を基に考え始めるようになり、こんな楽しいことはないのである。
何かを目指すことで得られるものは、めざすことをしないのに比べると、比べようもない程のものを与えてくれるから、トップを目指してしかも努力しないでその座を得られるように思考したり工夫したりすれば、ものごとの本質を見抜く洞察力が身に付くのである。
頭を使うのが苦手だと思い込んでいる人は、実は体を使うこともまた苦手なはずなのである。体を使うことが得意な人は頭を使うことも得意になるのであるし、頭を使うことが得意な人に運動神経が鈍い人は存在しないのであり、つまり頭の良い人は体を使うのも得意になれるのである。運動神経が良いのに頭の悪い人もまた同じなのである。
何故、苦手意識が生まれるかというと、偶々失敗した経験によって思い込んでいるに過ぎないのであり、只訓練の方法が間違っていたのである。
例えば、頭を使うのが苦手だと思い込んでいる人は、只単純にものを覚えるという作業が上手くいかず、つまり手がかりなしに、何らかの法則なしにものごとを暗記することが上手くいかなかったために、その記憶を元に応用として次なる段階の問題を解くことができず、益々苦手意識を生んでしまったのである。
一方、運動神経が鈍いと思い込んでしまった人もまた同様で、何の手がかりも法則もなしに練習し偶々失敗したことによって、自分は運動神経が鈍いと思い込んでしまっているだけで、努力したり練習を一生懸命せずともできる方法はないかと模索すれば、必ず効果的で容易な方法が見つかり自信を取り戻すことができるのである。
頭を使うにしても体を使うにしても、最短距離を模索して効率を追求することで、本質を知ることができるのである。従来通りとか上級者のいう通りという方法をとることは無難な道ではあるけれど、必ずその方法が本当に最善の方法なのかを吟味する必要があるのであり、その方法に正当性があったとしても必ずしも自分にあった方法とは限らないのである。
そもそも従来のやり方や上級者の論じる方法は、その域に達してから構築した論理で構成されているから、その域に達していない道半ばの人や自分を未熟者だと思い込んでいたり苦手意識を持っていたりする人にとっては、最善の方法とは限らないことが多いのである。
無我夢中で練習したり、盲目的に一つの方法を盲信したりすることは、とても愚かしいことで、最善の方法を見つけなければならない、そして最善の方法は、一所懸命でなく努力することもなく忍耐を必要としない、必要最小限の労働や記憶や鍛錬によって最高の成果を模索することによって、見出すことができるのである。
6月も今日で終わりです。
今朝9時現在で、36℃ありました。今夜雨があるようですが馬場はからからに乾燥しているので、これから水を撒きます。
「トップを目指すことができない理由」
人は誰しもがトップを目指したいと考えているものだが、「私は、競争するのが嫌いだ。」とか「人と競争することに意味がない。」とか「トップになることではなくて、世界に一つだけに花のように、オンリーワンを目指したい。」とかもっともらしい理由を付けて、自らを高めることから離脱するのである。
トップを目指して自らを鍛えていくことを遮る理由は、いくらでも見つかるもので、人間は小学生に始まって大学まで多くの学問を学んだ挙げ句、自らを、トップを目指して訓練することから離脱することを、正当化する理屈を表現する術を身につけるのである。
自らを向上させるために訓練するということは、苦しいことでもなければ忍耐を必要とすることではない。
極めて人生をエンジョイするために、必要不可欠なことなのである。
昨日のテーマにしたように、記憶しなくてもしたのと同じ結果を出すようにすることだったり、一生懸命しなくてもしたのと同様以上の成果を出すことであったり、勉強しなくてもしたのと同じように物知りになったりするように、工夫を考えることなのである。
つまり最低の記憶と努力と勤勉とによって、最高の成果を上げる事ができる秘策を考えることが、トップを目指すことであり最高の技術や思考力や能力を身につけるということなのである。
最高レベルの努力をして最高レベルの技術を身につけるのは当たり前で、誰にでもできることではないのである。
つまり当たり前のことは、実は当たり前のこととは程遠いのである。
世間一般の常識としていわれている一所懸命努力して、誰よりも努力して誰よりも高い能力を身につけるという当たり前の論理は、たった一人しかトップの座を得られない方法なのであり、外の全員は誰よりも努力をしようと一生懸命勤めたのに挫折するのである。しかも誰もができるような安易な方法ではないのである。
だから、長いこと勉学に努めた結果身につけた能力を、トップを目指して努力しない理由の正当性を巧みに言い訳するためにしか使わないようになってしまうのである。
外の誰よりも努力しないで、最高の能力を身につけるように工夫することは、誰でもが簡単にできることだし、多感になることができるし、何よりも感じた感覚を基に考え始めるようになり、こんな楽しいことはないのである。
何かを目指すことで得られるものは、めざすことをしないのに比べると、比べようもない程のものを与えてくれるから、トップを目指してしかも努力しないでその座を得られるように思考したり工夫したりすれば、ものごとの本質を見抜く洞察力が身に付くのである。
頭を使うのが苦手だと思い込んでいる人は、実は体を使うこともまた苦手なはずなのである。体を使うことが得意な人は頭を使うことも得意になるのであるし、頭を使うことが得意な人に運動神経が鈍い人は存在しないのであり、つまり頭の良い人は体を使うのも得意になれるのである。運動神経が良いのに頭の悪い人もまた同じなのである。
何故、苦手意識が生まれるかというと、偶々失敗した経験によって思い込んでいるに過ぎないのであり、只訓練の方法が間違っていたのである。
例えば、頭を使うのが苦手だと思い込んでいる人は、只単純にものを覚えるという作業が上手くいかず、つまり手がかりなしに、何らかの法則なしにものごとを暗記することが上手くいかなかったために、その記憶を元に応用として次なる段階の問題を解くことができず、益々苦手意識を生んでしまったのである。
一方、運動神経が鈍いと思い込んでしまった人もまた同様で、何の手がかりも法則もなしに練習し偶々失敗したことによって、自分は運動神経が鈍いと思い込んでしまっているだけで、努力したり練習を一生懸命せずともできる方法はないかと模索すれば、必ず効果的で容易な方法が見つかり自信を取り戻すことができるのである。
頭を使うにしても体を使うにしても、最短距離を模索して効率を追求することで、本質を知ることができるのである。従来通りとか上級者のいう通りという方法をとることは無難な道ではあるけれど、必ずその方法が本当に最善の方法なのかを吟味する必要があるのであり、その方法に正当性があったとしても必ずしも自分にあった方法とは限らないのである。
そもそも従来のやり方や上級者の論じる方法は、その域に達してから構築した論理で構成されているから、その域に達していない道半ばの人や自分を未熟者だと思い込んでいたり苦手意識を持っていたりする人にとっては、最善の方法とは限らないことが多いのである。
無我夢中で練習したり、盲目的に一つの方法を盲信したりすることは、とても愚かしいことで、最善の方法を見つけなければならない、そして最善の方法は、一所懸命でなく努力することもなく忍耐を必要としない、必要最小限の労働や記憶や鍛錬によって最高の成果を模索することによって、見出すことができるのである。
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