Arena Condition
AM 9:45 December 29, '10(Wednesday)
快晴無風の天気です。馬場も絶好調です。
とても穏やかさで、空気の冷たさもさほどではありません。
「心の芽」
意識的に何かをやろうとするときに、何かを期待して行うものだ。
その期待は、課題の解決や現状の打開や向上や探し物など色々である。この期待をするということは、意識的にやろうとする行動に、その期待するものを手にすることができるという可能性を抱いているに違いない。
期待するものを手にすると考えるのは、もしかしたら手にすることができないかも知れないとか、リスクがあるとか、それを確信していたりその逆にとても不安視していたりするものだ。
この確信や疑問が「心の芽」なのである。
この心の芽は、この行動による結果を検証することに繋がり、なければ結果の検証をしないので向上することはないし、運良く期待するものを手にすることができたとしても、恒常的にはならないし再現できない。そしてこの運の良さが益々、心の芽が出てくるのを妨げてしまうのである。
何らかの期待を胸に行動をする場合に、期待するものを手に入れられる可能性があるのかないのか、あるとすればどの程度なのかという心の芽を持たない場合は、結果に対する検証が行われない。
結果が良くても悪くても、その行動が功を奏しているのかいないのかという考えが起きないということだ。
何かを期待する行動は、色々なことが原因となってやってみようという意図が働くわけで、その色々とは、誰かがやっているとか指導者に教えられたとか、失敗したのをクリアしたいとか、様々である。
何れにしても何らかのきっかけがあって、そして何らかの期待するものがあって、やってみようと思うのである。
「心の芽」がなければ、結果について何らかの検証をすることはない。結果に関する検証がなければ、向上するということはあり得ないし、期待を込めた行動の選択が正しいのか間違っているのかも、判断できないばかりか判断そのものをしないということなのである。
「心の芽」は、人間そのものが向上するためには不可欠だから、誰にでも備わっている機能なのである。多くの場合は、必然性のあるものに挑戦していれば、殆どの人に心の芽が存在する。
自転車に乗る。
料理をする。
車を運転する。
ものを作る。
泳ぐ
その他
必然性とは、結果によって料理であれば食べられなくなるし、自転車は転ぶし、車は何かにぶつけてしまうし、ものは完成しないなどの結果において明らかな良否が決定してしまうような、またその結果が身の安全に直結するような、ことだ。
必然性のないこととは、結果がどうあれ、身に危険が及ばないことや良否が分かりにくいこと時間のかかるものなどが上げられる。
歌の練習。
生け花。
書画を書く
ジョギング。
掃除。
ビジネス。
作業。
その他。
必然性の薄いものは、心の芽を持てない要因を持つ。
最初は、何かを期待して行動をしようと思うわけだから、誰でも何らかのリスクや成功の可能性や疑問符を抱いて始めるもので、そうであれば結果の良否を検証する。しかし、その良否をジャッジするには洗練された感覚なくしてはできないので判断しにくかったり、時間を掛けて成果を出したりするようなものであれば、一回一回の結果が明らかにどうであったか違いがはっきりしないので検証し難い、この経験によって結果についてあれこれ考えることを止めてしまうことになるのである。
また、最初から結果が急激にはっきりと変化するようなものでないという認識だと、結果について一々考察するということをしないこともある。
何れにしても、意図した行動をする際に、その効果について何らかの可能性や効果を思案するということを心に持つことによって、自動的に結果を検証し、その検証によって行動そのものを分析して、更なる向上を目指すことができるのである。
快晴無風の天気です。馬場も絶好調です。
とても穏やかさで、空気の冷たさもさほどではありません。
「心の芽」
意識的に何かをやろうとするときに、何かを期待して行うものだ。
その期待は、課題の解決や現状の打開や向上や探し物など色々である。この期待をするということは、意識的にやろうとする行動に、その期待するものを手にすることができるという可能性を抱いているに違いない。
期待するものを手にすると考えるのは、もしかしたら手にすることができないかも知れないとか、リスクがあるとか、それを確信していたりその逆にとても不安視していたりするものだ。
この確信や疑問が「心の芽」なのである。
この心の芽は、この行動による結果を検証することに繋がり、なければ結果の検証をしないので向上することはないし、運良く期待するものを手にすることができたとしても、恒常的にはならないし再現できない。そしてこの運の良さが益々、心の芽が出てくるのを妨げてしまうのである。
何らかの期待を胸に行動をする場合に、期待するものを手に入れられる可能性があるのかないのか、あるとすればどの程度なのかという心の芽を持たない場合は、結果に対する検証が行われない。
結果が良くても悪くても、その行動が功を奏しているのかいないのかという考えが起きないということだ。
何かを期待する行動は、色々なことが原因となってやってみようという意図が働くわけで、その色々とは、誰かがやっているとか指導者に教えられたとか、失敗したのをクリアしたいとか、様々である。
何れにしても何らかのきっかけがあって、そして何らかの期待するものがあって、やってみようと思うのである。
「心の芽」がなければ、結果について何らかの検証をすることはない。結果に関する検証がなければ、向上するということはあり得ないし、期待を込めた行動の選択が正しいのか間違っているのかも、判断できないばかりか判断そのものをしないということなのである。
「心の芽」は、人間そのものが向上するためには不可欠だから、誰にでも備わっている機能なのである。多くの場合は、必然性のあるものに挑戦していれば、殆どの人に心の芽が存在する。
自転車に乗る。
料理をする。
車を運転する。
ものを作る。
泳ぐ
その他
必然性とは、結果によって料理であれば食べられなくなるし、自転車は転ぶし、車は何かにぶつけてしまうし、ものは完成しないなどの結果において明らかな良否が決定してしまうような、またその結果が身の安全に直結するような、ことだ。
必然性のないこととは、結果がどうあれ、身に危険が及ばないことや良否が分かりにくいこと時間のかかるものなどが上げられる。
歌の練習。
生け花。
書画を書く
ジョギング。
掃除。
ビジネス。
作業。
その他。
必然性の薄いものは、心の芽を持てない要因を持つ。
最初は、何かを期待して行動をしようと思うわけだから、誰でも何らかのリスクや成功の可能性や疑問符を抱いて始めるもので、そうであれば結果の良否を検証する。しかし、その良否をジャッジするには洗練された感覚なくしてはできないので判断しにくかったり、時間を掛けて成果を出したりするようなものであれば、一回一回の結果が明らかにどうであったか違いがはっきりしないので検証し難い、この経験によって結果についてあれこれ考えることを止めてしまうことになるのである。
また、最初から結果が急激にはっきりと変化するようなものでないという認識だと、結果について一々考察するということをしないこともある。
何れにしても、意図した行動をする際に、その効果について何らかの可能性や効果を思案するということを心に持つことによって、自動的に結果を検証し、その検証によって行動そのものを分析して、更なる向上を目指すことができるのである。
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