Arena Condition
AM 9:20 January 20, '10 (Wednesday)
今朝は、久々に暖かい良いお天気です。
3~5日ぶりに馬場の凍結がありませんでした。
20年開設以来の馬場全面凍結から解放されました。
馬場は、ベスト状態です。
「忘れ物」
物事には期限がある。
期限を、締め切りとか期限とか日本語では表現する。
英語では、デッドライン(Dead Line)と表現する。
日本の文化では、期限や締め切りは日常的なことで、特別ではない。しかし英語圏では、デッドラインだから、大変特別なことなのかそれとも死が特別ではないのか。
それでも締め切りや期限を、デッドラインと表現するのは驚きだ。
日産自動車の再建にカルロスゴーンがやってきたとき、日産の社員は素晴らしいと何故ならデッドラインという文化がある。その文化があるので、日産を再建するのは、必ずできると言ったのである。
しかし本当に日本には、デッドラインという文化があったのだろうか。
私は、茨城県の麻生町というところで生まれて、今は町村合併で行方市という名前になっているが、町立の小学校と中学校へ入って育った。学校の先生に良くいわれたのが今でも覚えているが、「麻生時間」ということだった。
それは、決められた時間に必ず1時間遅れるということだ。
集合時間が3時だったら4時に集まり、開始時間が10時だったら11時に始まるといった具合で、この町の人達は、何時も決められた時間より1時間遅れると嘆いていたのを思い出す。
私の生まれた町の風習が、日本全体の文化といえるほどなのかどうかは解らない。しかし日本人は、元々ゆったりした生活時間の感覚を持っていたのではないだろうか。デッドラインなどという時間に対する観念を、持っていたとは思えない。
私の知り合いの子供が、宿題や学校へ持っていかなければならないものを、良く忘れたりしなかったりするらしい。すると残されて宿題をやらされたり何らかの罰を与えられたりするらしい。
しかし本人は、一向に気にしないらしく忘れ物はするし宿題はやっていかないらしい。
どうしたらいいだろうかと母親は悩んでいる。
私は、何も気にするようなことではないと思う。
唯、彼は、自分と母親との約束を母親が忘れると、怒るらしい。
このことを見ると、彼は時間や期限の感覚がないということではなくて、自分にとって必要だと思える期限や時間だと認識しないときは、取り立てて気にならないということだろう。
母親や周りの人達はこの場合、如何に忘れ物や宿題を忘れずにやっていくようにするかを、考えるだろう。このことによってこの子供が忘れる回数が、10回が8か7ぐらいに減ることはあっても、忘れ物をしなくなるようにならないだろう。
問題は、彼が宿題や学校へ持っていくものを、自分にとって必要だと思えるかどうかだ。
彼が宿題や学校へ持っていかなければならないものに対して、どんな認識を持っているかを聞き出す必要がある。
世のお母さんは、宿題はやらなければならないもの、物は忘れてはならないものという倫理観を持っている前提で、子供に接する。しかし子供は、そんな前提となる倫理観を持っていない。
この倫理観を持っている子供に忘れ物をしないようにすることと、倫理観を持っていない子供に対する指導法は違わなければならない。
しかし大凡のお母さんは、そんなことを考えずに同じ指導法で子供を扱おうとする。
これは大きな間違いだ。
倫理観を持っている子供には、覚えている必要がなくても忘れ物をしない工夫を、教えることで解決する。
しかし倫理観を持っていない子供には、この指導法では解決しない。
つまりこの子供は、忘れたから忘れ物をしているわけではないし、宿題も同様で、やらなければならないと思っていないということで、謂わば確信犯だから、本人がそれを必要だと思うようにならなければ、この子供がやるようにはならない。
しかしこの子供にとって唯一の救いは、自分にとって必要だと思う約束を、母親が忘れたときに怒るというという点だ。
つまりこの点は、自分にとって必要だと思えることに対して、期限や時間という観念を思っているということを意味する。
一つの提案は、意図的に母親が彼との約束を忘れるということだ。そして彼が怒ったときに、時間や期限の観念を強く意識しているときに、話して聞かせるようにしてはどうかということ。
宿題も学校へ持っていくものも、学校の先生のためのものではなくて自分自身の為のものだから、宿題をしないことも忘れ物をすることも、自分に対しての約束を自分自身が破っているのと同じことなのだ。
彼は母親が約束を破れば怒りを覚えるのに、自分が自分への約束を破ることには怒りや焦りを感じないのは可笑しいという理屈になる。
多分彼の心の中では、約束を破る自分と約束を守るときの拘束に対してそうしたくないという心の葛藤をして、結局ずるずると約束を破ってしまっているに違いない。そして破ってしまった後に、それほどの損失感を感じないていないから、大人であれば、この損失感を大きなものと捉えられれば、次からは約束を守るようになるかも知れない。しかし、この子供は約束を守るよりも破った後の懲罰よりも、テレビゲームの誘惑の方が大きいのだ。
先程の提案だけでなく、強制力を持って宿題をすることと忘れ物をチェックするする必要がある。
宿題と明日の持っていくものをチェックすることにために、多分1日約1時間 1ヶ月か2ヶ月の期間、毎日母親がついていてさせる必要がある。この宿題や忘れ物のチェックを苦もなくできるという感覚を養う必要がある。
大事なことは、宿題を忘れたり忘れ物をしたりしても、パニックにならなくおっとりしているという性格を壊すことなく、成果を上げることだ。
もしデッドラインというのが日本の文化だとすると、私は悲しい文化ではないだろうかと思う。
今になって思うが、麻生時間というのは、宝物なのではないかとこの年になって実感する。
今朝は、久々に暖かい良いお天気です。
3~5日ぶりに馬場の凍結がありませんでした。
20年開設以来の馬場全面凍結から解放されました。
馬場は、ベスト状態です。
「忘れ物」
物事には期限がある。
期限を、締め切りとか期限とか日本語では表現する。
英語では、デッドライン(Dead Line)と表現する。
日本の文化では、期限や締め切りは日常的なことで、特別ではない。しかし英語圏では、デッドラインだから、大変特別なことなのかそれとも死が特別ではないのか。
それでも締め切りや期限を、デッドラインと表現するのは驚きだ。
日産自動車の再建にカルロスゴーンがやってきたとき、日産の社員は素晴らしいと何故ならデッドラインという文化がある。その文化があるので、日産を再建するのは、必ずできると言ったのである。
しかし本当に日本には、デッドラインという文化があったのだろうか。
私は、茨城県の麻生町というところで生まれて、今は町村合併で行方市という名前になっているが、町立の小学校と中学校へ入って育った。学校の先生に良くいわれたのが今でも覚えているが、「麻生時間」ということだった。
それは、決められた時間に必ず1時間遅れるということだ。
集合時間が3時だったら4時に集まり、開始時間が10時だったら11時に始まるといった具合で、この町の人達は、何時も決められた時間より1時間遅れると嘆いていたのを思い出す。
私の生まれた町の風習が、日本全体の文化といえるほどなのかどうかは解らない。しかし日本人は、元々ゆったりした生活時間の感覚を持っていたのではないだろうか。デッドラインなどという時間に対する観念を、持っていたとは思えない。
私の知り合いの子供が、宿題や学校へ持っていかなければならないものを、良く忘れたりしなかったりするらしい。すると残されて宿題をやらされたり何らかの罰を与えられたりするらしい。
しかし本人は、一向に気にしないらしく忘れ物はするし宿題はやっていかないらしい。
どうしたらいいだろうかと母親は悩んでいる。
私は、何も気にするようなことではないと思う。
唯、彼は、自分と母親との約束を母親が忘れると、怒るらしい。
このことを見ると、彼は時間や期限の感覚がないということではなくて、自分にとって必要だと思える期限や時間だと認識しないときは、取り立てて気にならないということだろう。
母親や周りの人達はこの場合、如何に忘れ物や宿題を忘れずにやっていくようにするかを、考えるだろう。このことによってこの子供が忘れる回数が、10回が8か7ぐらいに減ることはあっても、忘れ物をしなくなるようにならないだろう。
問題は、彼が宿題や学校へ持っていくものを、自分にとって必要だと思えるかどうかだ。
彼が宿題や学校へ持っていかなければならないものに対して、どんな認識を持っているかを聞き出す必要がある。
世のお母さんは、宿題はやらなければならないもの、物は忘れてはならないものという倫理観を持っている前提で、子供に接する。しかし子供は、そんな前提となる倫理観を持っていない。
この倫理観を持っている子供に忘れ物をしないようにすることと、倫理観を持っていない子供に対する指導法は違わなければならない。
しかし大凡のお母さんは、そんなことを考えずに同じ指導法で子供を扱おうとする。
これは大きな間違いだ。
倫理観を持っている子供には、覚えている必要がなくても忘れ物をしない工夫を、教えることで解決する。
しかし倫理観を持っていない子供には、この指導法では解決しない。
つまりこの子供は、忘れたから忘れ物をしているわけではないし、宿題も同様で、やらなければならないと思っていないということで、謂わば確信犯だから、本人がそれを必要だと思うようにならなければ、この子供がやるようにはならない。
しかしこの子供にとって唯一の救いは、自分にとって必要だと思う約束を、母親が忘れたときに怒るというという点だ。
つまりこの点は、自分にとって必要だと思えることに対して、期限や時間という観念を思っているということを意味する。
一つの提案は、意図的に母親が彼との約束を忘れるということだ。そして彼が怒ったときに、時間や期限の観念を強く意識しているときに、話して聞かせるようにしてはどうかということ。
宿題も学校へ持っていくものも、学校の先生のためのものではなくて自分自身の為のものだから、宿題をしないことも忘れ物をすることも、自分に対しての約束を自分自身が破っているのと同じことなのだ。
彼は母親が約束を破れば怒りを覚えるのに、自分が自分への約束を破ることには怒りや焦りを感じないのは可笑しいという理屈になる。
多分彼の心の中では、約束を破る自分と約束を守るときの拘束に対してそうしたくないという心の葛藤をして、結局ずるずると約束を破ってしまっているに違いない。そして破ってしまった後に、それほどの損失感を感じないていないから、大人であれば、この損失感を大きなものと捉えられれば、次からは約束を守るようになるかも知れない。しかし、この子供は約束を守るよりも破った後の懲罰よりも、テレビゲームの誘惑の方が大きいのだ。
先程の提案だけでなく、強制力を持って宿題をすることと忘れ物をチェックするする必要がある。
宿題と明日の持っていくものをチェックすることにために、多分1日約1時間 1ヶ月か2ヶ月の期間、毎日母親がついていてさせる必要がある。この宿題や忘れ物のチェックを苦もなくできるという感覚を養う必要がある。
大事なことは、宿題を忘れたり忘れ物をしたりしても、パニックにならなくおっとりしているという性格を壊すことなく、成果を上げることだ。
もしデッドラインというのが日本の文化だとすると、私は悲しい文化ではないだろうかと思う。
今になって思うが、麻生時間というのは、宝物なのではないかとこの年になって実感する。
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