Arena Condition
PM 8:00 September 30, '09 (Wednesday)
9月最終日です。
生憎の雨です。馬場は水が浮き始めました。
でも明日は一日曇りだそうです。
今週は馬場状態は良くなりそうもないかも知れませんね。
「何故私は、それをする。」
何故私は、それをするか。殆どの場合は、それを何の為にするか初めからあって、行動をするものだ。しかし偶に何のためにするかわららないでする場合もある。
何の為にするか分かっていたとしても分からなかったとしても、何のためにするのかを知りたいと思っていないということはないはずだ。
特に事前に知っている人は、何のためにするのかどんな効用があるのかを知りたいと思う必要がある。
何故なら、事前に何のためにするのか分からないでやる場合は、当然何のためにとかどんな効用があるのかを、探ろうという気があるので、自然に探索する気が立つものだ。
しかし、事前に知っていると思っている人ほど、探索する気持ちを意識的でも持たなければ、もし誤解していたら折角のチャンスを失ってしまうものなのだ。知っていると思っているからこそ知りたいと思う気持ちが弱く、ある種のフィルターをかけて見ているから、本質を捉えられる可能性が薄いのだ。
何れにしても無心で事に当たるということは、目的を捨てて無心になれということではなくて、目的をしっかりと持ち、その上で始める行動について、何のためにとかどんな効用を作り出そうとかを意識するのだが、その行動一つ一つを実際に始めた時に、どんな感じを受けるのかについて、何ら先入観を抱かずに、本当に感じられるまま受け取れるようにしなければならないということなのだ。
もし何らかの先入観を持ってしまっているとしたら、どんな先入観を持っているかを確かめておく必要がある。そうすれば予めどんな先入観を持っているかを堪忍できていることによって、今受けている感じからその先入観を差し引いて、解釈することができるのだ。
つまり無心になるということは、自分がどんな先入観を持ってしまっているのか、潜在的にどんなものに対して、必ずどんな感覚を抱く癖があるのかを知ってさえいれば、物事の本質をより正確に掴むことができるということなのだ。
無心になることが心に何もないようにすることだと思ってしまうと、無心になるようにただひたすら念じることぐらいしかできないし、ひたすら念じたぐらいで無心になれるということはないのに、無駄なことをしているようなものなのだ。
自分の心のありかを確認すことが、無心になる第一歩だということがいえる。
今、自分は何を欲しがっているのか。どんな先入観を持っているのか。私の癖はどんなものなのか。私の好き嫌いは?そして今どんな感じを受けているのか。
その感じた感じについて、思考を巡らさなければならない。
「感じて、学ばざれば暗し。 学んで、感じざれば危うし。」
9月最終日です。
生憎の雨です。馬場は水が浮き始めました。
でも明日は一日曇りだそうです。
今週は馬場状態は良くなりそうもないかも知れませんね。
「何故私は、それをする。」
何故私は、それをするか。殆どの場合は、それを何の為にするか初めからあって、行動をするものだ。しかし偶に何のためにするかわららないでする場合もある。
何の為にするか分かっていたとしても分からなかったとしても、何のためにするのかを知りたいと思っていないということはないはずだ。
特に事前に知っている人は、何のためにするのかどんな効用があるのかを知りたいと思う必要がある。
何故なら、事前に何のためにするのか分からないでやる場合は、当然何のためにとかどんな効用があるのかを、探ろうという気があるので、自然に探索する気が立つものだ。
しかし、事前に知っていると思っている人ほど、探索する気持ちを意識的でも持たなければ、もし誤解していたら折角のチャンスを失ってしまうものなのだ。知っていると思っているからこそ知りたいと思う気持ちが弱く、ある種のフィルターをかけて見ているから、本質を捉えられる可能性が薄いのだ。
何れにしても無心で事に当たるということは、目的を捨てて無心になれということではなくて、目的をしっかりと持ち、その上で始める行動について、何のためにとかどんな効用を作り出そうとかを意識するのだが、その行動一つ一つを実際に始めた時に、どんな感じを受けるのかについて、何ら先入観を抱かずに、本当に感じられるまま受け取れるようにしなければならないということなのだ。
もし何らかの先入観を持ってしまっているとしたら、どんな先入観を持っているかを確かめておく必要がある。そうすれば予めどんな先入観を持っているかを堪忍できていることによって、今受けている感じからその先入観を差し引いて、解釈することができるのだ。
つまり無心になるということは、自分がどんな先入観を持ってしまっているのか、潜在的にどんなものに対して、必ずどんな感覚を抱く癖があるのかを知ってさえいれば、物事の本質をより正確に掴むことができるということなのだ。
無心になることが心に何もないようにすることだと思ってしまうと、無心になるようにただひたすら念じることぐらいしかできないし、ひたすら念じたぐらいで無心になれるということはないのに、無駄なことをしているようなものなのだ。
自分の心のありかを確認すことが、無心になる第一歩だということがいえる。
今、自分は何を欲しがっているのか。どんな先入観を持っているのか。私の癖はどんなものなのか。私の好き嫌いは?そして今どんな感じを受けているのか。
その感じた感じについて、思考を巡らさなければならない。
「感じて、学ばざれば暗し。 学んで、感じざれば危うし。」
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