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Arena Condition

PM 6:30 August 10, '09 ( Monday)

 集中豪雨です。明日の午前中ぐらいまでは、強い雨が降りそうです。久々にものすごい雨でした。
それから昨夜の地震も並ではなかった。千葉が深度3になっていましたが、そんなものではなかったように感じました。

 馬場は、水曜日から晴れるようなので、こんな強い雨の後は回復が速いので、週後半にはベスト状態になることでしょう。

 「起点」

 なにをやるにしても距離感が働くものである。距離感は、ある地点を起点として捉えていなければ生まれない。起点は、方位がない。座標軸X:Yは、0:0だということだ。

 図面やグラフや地図などに関わる時は、この座標軸について身近に思うものだが、それ以外ではあまり身近に思うことがないのが普通かも知れない。

 しかし誰もが無意識に起点という観念をもっていることも確かで、何かにつけて「帰る。行く。」「戻る。出かける。」「増える。減る。」「利益。損害。」「正しい。間違い。」「夜。昼。」「重い。軽い。」「暑い。寒い」等々きりがないほど我々の日常的な言葉に中に、ある起点を基準にして推し量る言葉が多い。こうしてみるとあまりに起点が身近過ぎにて、一々意識するほどでもなくなっているというのが当たっているのかも知れない。

 人とコミュニケーションするにも、ある一定の前提条件が共通の認識として一致していないと、話は通じない。それが起点であり一般的に標準化されているものが度量衡である。

 何をやるにしても理解するにしても、この起点を意識する必要があるのではないだろうか。この起点が意識できないまま何かをやろうとしたり理解しようとしても、曖昧になってしまいかねない。

 感覚が洗練される場合でも、初めは目で見えないものは見ることができないが、やっている内に目で見なくても感覚的に見えるようになるものだ。

 車の運転にしても、運転中にタイヤの位置を目で見ることができる人はいない。しかし感覚的にタイヤの位置が解る。これは、やっている内に解るようになるという風にしか理解されていないが、実際はどうだろうか。
 車の運転をすること自体が訓練だが、その時に人は、自分の座っているところを起点にしてその距離を推し量っている内に、感覚的にタイヤの位置が読み取れるようになるのだ。これを意識的にやっているというより、必要に迫られてやっている内に、解るようになったという実感しかないことだろう。しかし、感覚の良い人や覚えの良い人は、意識的に起点から距離を推し量るように、イメージして自分の感覚を訓練してしまうのだ。

 起点はどんな処においても良いものだ。何故なら意識的なものだからだ、しかし自分の身近な所におくのが最も良い。それは、やるものや理解する対象物によって、それぞれ置き方も置く場所も違ってくるのだ。

 このまま具体的なことを書かないまま起点について書き進めても、益々解りづらくなってしまうので、馬のことについて書き進めてみることにする。

 私の場合は、外方の肩を起点として意識する所で、馬の頭やヒップの位置は、外方の肩から推し量っている。
 例えば頭が外向いているとか内を向いているとか腰が外や内というようにありますが、肩が外とか内とかいうのが殆どないのだ。つまりこれは起点を意識の中にどのようのくかという観念的なことなので、人によって様々でも良いことだと思う。
 
 私は、外方の肩が起点だから、馬の頭を内に向けたければ、肩の位置に対して内に向けるということになり、腰を内に入れたければこれも外方の肩に対して、内に向けるということになる。至極当たり前のことだ。
 何が言いたいのかといえば、多くの人は、起点を強く意識するということがないために、馬が外を向いているということも言いようによっては、肩が内を向いているというようにいえることであり、腰が内を向いているということも言いようによっては、肩が外を向いているともいうことができる。
 
 このように同じことでも基準を何処に置くかによって、表現が変わってしまうのだ。表現だけの問題であればいいのだが、実際に馬をコントロールしようとする時に、基準となる所がその時その時によって、ある時は肩あるときは頭そしてあるときは腰というように、変わってしまいかねないのだ。
 
 内方姿勢を取ろうとする場合、肩を起点として意識している人は、馬の頭や腰を内方へと移行することによって、作ろうとするだろうし、頭を起点に考えている人は、肩を外へ腰をそのままにして、腰を起点にしている人は、肩を外へ頭をそのままの位置へというようにして、作るようにするでしょう。つまり何処を起点に意識するかで、馬に強いる方法が違ってくるということだ。しかし起点の置き所が一貫していれば、馬に強いることは一貫してくるので問題はない、問題はその時々で起点の置き所が違ってしまうということだ。

 起点の置き所を意識的に決定していない人は、内方姿勢一つとってもその時々によって、馬に対する指示が違ってきてしまうのだ。この起点に対する意識が一貫性を欠いていたり、曖昧だったりすれば、ライダーの感覚は一向に洗練されることはなく、目で見ることができない4肢の位置やステップを永遠に見ることはできない。

 ライダーがやることに一貫性が持てなかったり、レインを持つ手のフィールが何時までも生きたものにならなかったりするのは、この起点という意識が薄いことに他ならないのだ。あまりにも当たり前のように、物事を比較して感じているが、その比較している対象物だけに目を向けるのではなくて、比較する基準となる起点を、自分が何をもって起点としているのかをその都度検証してみる必要がある。

 何処に起点をおくかを問題にする前に、自分は何を起点にしているのかを洗い出す必要があり、それができれば、起点に一貫性を持たせることが可能になる。そして次の段階で、何処に起点をおくことが最も有効なのかを考えればいいのだ。

 起点はあらゆるものを識別する為に欠かすことができない観念だ。自分の性格は、何事かに対して判断をしたり解釈をする場合において、その何事かを見る時に意識していようがいまいがある起点を基準にしていて、その基準に従って理解したり解釈して出した答えは、自分の性格を反映しているといえるし、他人はそれらの判断や解釈を見て、この人はこういう人だと理解するのである。
 つまり自分自身の個性の出発点は、起点の置き所だということができるのだ。
 それを曖昧に自然の成り行きに任せていては、あまりにも自分が存在しないといえるのだ。
 
 何事もできるようになったり優れた人になったり、ものが見えるようになったり理解できるようになる為には、取り敢えず自分にとっての起点を意識することから始めるのがいい。そして自体が進むにつれて、最も有効な起点の置き所を見つければ、新たな起点を意識するようにすればいいし、起点という観念は直ぐに当たり前になってしまうものなので、対象物が意識にもちあがる度に、先ず起点を意識するように努めることが賢明だ。

 論理と感覚を繋ぐパイプは、起点という観念を意識することによってのみ繋がるものであり、人と人とがコミュニケーションする場合においても、前提条件が話題の共通認識として成り立っていなければ不可能であり、この前提条件が起点という観念だということだ。
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