Arena Codition
PM 6:00 February 24 , '09 (Tuesday)
今日は、全く予報通りの一日でした。
朝の内は、曇りで日中晴れ間がして、夕暮れと共に雨が降り始めました。
明日は、曇りのち雨だそうです。
塩野 七生という作家が先日、日本に来た時のインタビューで、面白いことを言っていました。
アメリカは、大統領がブッシュからオバマに大統領が替わって、武力行使よりも先ず対話というように、戦略を転換しました。そして、先日来日したヒラリークリントンも、ソフトパワーと言って、対話重視策をとるように言っている。
この塩野氏が言うには、先ず武力で叩いてから話し合いのテーブルに着け、というのがブッシュ大統領のやり方で、一方オバマ大統領は、先ずテーブルについて話し合って、問題を解決しましょうというやり方で、という戦略的違いがある。
一見オバマのやり方は、耳障りが良く、一般受けが良いのだが、実際には何も進展しないでしょう。
ブッシュのやり方は、誰も喜ぶやり方ではないが、何かを決めることができる。
つまり、歴史的に振り返っても、危機意識の元にテーブルに着いた会談でなければ、実際には何も決まらない。と仰っていました。
私は、大変面白く拝聴しました。
人間は、能動的に自分が望むことに向かって行動を起こす場合と、危機が迫った時のように、何らかの義務的なことが発生した時に行動を起こす場合とでは、どちらが積極的なのでしょうか。
この議論は、どちらか一方だけが良いとか正義だとかということではない。
人は、危機や義務によって行動をするということではなくて、自らが能動的に行動を起こすことを是とするような、精神作用がある。
太平洋戦争の敗戦後の貧困時代を思い起こせば、その頃人々は、その日を過ごすことだけ精一杯で、やっと今日も生き延びたという思いで生活をしていました。
そんな時に、人々は、「食うことに追われない生活ができたらいいなぁ」と思っていたに違いありません。
しかしその頃は、ふとそんな気が頭をよぎることはあっても、直ぐに現実に戻されて、一日一日生きるのが精一杯だったことでしょう。
それでも人々は、不幸だったかといえば、そうとばかりはいえない。実際その時代に、肥満も鬱病も自殺も親殺しも子殺しもストーカーも、今のようには無かったのです。
人間が自分の欲望を満足させるために、能動的に起こす行動と、危機や義務によって望むと望まざるとに関わらず起こす行動とのどちらかが良いか悪いかではなくて、要はそのバランスが必要なのではないしょうか。
しかし我々は、この二つの行動の比率のバランスを取ることは、極めて難しい。
何故なら、義務や危機は人智の及ぶこととして発生するわけではないからです。そしてまた、人間の欲望もまた際限のないものだからです。
そして、この義務や危機によるところの行動の割合を少なくして、欲望的行動の割合を多くしようと考えるのが自然なベクトルを持つのもまた人間でしょう。
しかし我々の不幸は、欲望的行動の割合が大きくなった時に作られるし、むしろ義務や危機による行動の必要性が少なくなるに連れて、大きくなっているということなのです。戦争もその一つだといえなくもない。
特に日本人は、ヨーロッパの貴族社会のように何千年もの間、食うためのという必然性のない生活を知らないし、食うために働く時代しか経験して来なかったので、現代に起きている不幸な事件や満足を経験しない世代の不幸は、全て義務や危機からの解放によって起きていると言わざるを得ません。
例えば、満足ということ一つとっても、危機や貧困などのような渇望の対局として存在するのか、自分の希望や欲望を充足することとして存在するのか、これらの二つは、その満足を得るプロセスにおける精神の変遷は勿論のこと、満足そのものが与えてくれる感覚も全く違うものなのではないでしょうか。
義務や危機の発生するのを最小限にしようとするのは、人間の自然な行動ベクトルとして持っていることで、一方欲望を最大限にしようというのもまた人間の持つ自然な行動ベクトルだといえる。
もし義務や危機によるものと、欲望によるものとのバランスを取るようにしようとするのであれば、義務や危機による要因を増やすように、そして欲望によるものを少なくするように努めるようにすることが、バランスを取ることになると考えられる。
しかし、このような結論は、世の中で一般的にいわれていることを理屈っぽくいっているに過ぎない。何故なら、我を押さえて世のため人のために、尽くせという教えそのものだからです。
しかしこれでは、自分の欲を律することが善だということで、全てが解決してしまうことになる。
そんなことでは、解決しないことは分かっている。
もう一度飢餓時代のことを思い出さなければなりません。
つまり危機や義務による行動で精一杯の時代だった時、実はこの行動の発するところは、極めて自然な人間の欲望であったはずで、例えば飢えを凌ぐことや生活の安定などは、人間が生物として、生きていくための自然な欲望なのです。
行動の原動力である欲望そのものを増進したり抑制したりするように、コントロールしようとするのではなく、困窮の時代は生きていくために精一杯で、自分の欲や希望はままならなかったと述懐するのではなくて、それが欲望そのものであったというように、理解しなければなりません。
一方満ち足りた今は、社会のためとか困っている人のためとか何かを発展させるためというようなことを、自分自身の欲望と認識するようにすることや、次世代の子供達には教育によって、自分自身のパンのためだけを欲望として捉えるのではなくて、社会や他人や次世代のためのパンをも含めて、自分の欲望と認識できるする必要があるのです。
このような日本人にならなくては、尊敬される国には成れないし、それだけではなく、日本人一人一人の生き甲斐を取り戻して、幸せを生産できるように成れないのです。
今更、食べるものに飢えたり雨露を凌ぐのに大変さを経験して、今満ち足りている幸せを若い人に感じるように強制したところで、空しいことです。
人間の欲は限りないものです。それを無理に抑制すれば、どこかで爆発するし歪みが生じます。
質はともかく物理的満ち足りた社会が作れた日本は、一人の人間の欲望の持ち方を、体験と学習によって、作り替える必要がある。
そして、自分の中に危機意識や心地よい義務感を作るテクニックを身に付けて、自分を向上させたり飛躍させたり、そして社会に貢献することに、生き甲斐や幸せを感じて、前進することに辛さを感じない人になりませんか。
歴史を作る加害者になりましょう。
今日は、全く予報通りの一日でした。
朝の内は、曇りで日中晴れ間がして、夕暮れと共に雨が降り始めました。
明日は、曇りのち雨だそうです。
塩野 七生という作家が先日、日本に来た時のインタビューで、面白いことを言っていました。
アメリカは、大統領がブッシュからオバマに大統領が替わって、武力行使よりも先ず対話というように、戦略を転換しました。そして、先日来日したヒラリークリントンも、ソフトパワーと言って、対話重視策をとるように言っている。
この塩野氏が言うには、先ず武力で叩いてから話し合いのテーブルに着け、というのがブッシュ大統領のやり方で、一方オバマ大統領は、先ずテーブルについて話し合って、問題を解決しましょうというやり方で、という戦略的違いがある。
一見オバマのやり方は、耳障りが良く、一般受けが良いのだが、実際には何も進展しないでしょう。
ブッシュのやり方は、誰も喜ぶやり方ではないが、何かを決めることができる。
つまり、歴史的に振り返っても、危機意識の元にテーブルに着いた会談でなければ、実際には何も決まらない。と仰っていました。
私は、大変面白く拝聴しました。
人間は、能動的に自分が望むことに向かって行動を起こす場合と、危機が迫った時のように、何らかの義務的なことが発生した時に行動を起こす場合とでは、どちらが積極的なのでしょうか。
この議論は、どちらか一方だけが良いとか正義だとかということではない。
人は、危機や義務によって行動をするということではなくて、自らが能動的に行動を起こすことを是とするような、精神作用がある。
太平洋戦争の敗戦後の貧困時代を思い起こせば、その頃人々は、その日を過ごすことだけ精一杯で、やっと今日も生き延びたという思いで生活をしていました。
そんな時に、人々は、「食うことに追われない生活ができたらいいなぁ」と思っていたに違いありません。
しかしその頃は、ふとそんな気が頭をよぎることはあっても、直ぐに現実に戻されて、一日一日生きるのが精一杯だったことでしょう。
それでも人々は、不幸だったかといえば、そうとばかりはいえない。実際その時代に、肥満も鬱病も自殺も親殺しも子殺しもストーカーも、今のようには無かったのです。
人間が自分の欲望を満足させるために、能動的に起こす行動と、危機や義務によって望むと望まざるとに関わらず起こす行動とのどちらかが良いか悪いかではなくて、要はそのバランスが必要なのではないしょうか。
しかし我々は、この二つの行動の比率のバランスを取ることは、極めて難しい。
何故なら、義務や危機は人智の及ぶこととして発生するわけではないからです。そしてまた、人間の欲望もまた際限のないものだからです。
そして、この義務や危機によるところの行動の割合を少なくして、欲望的行動の割合を多くしようと考えるのが自然なベクトルを持つのもまた人間でしょう。
しかし我々の不幸は、欲望的行動の割合が大きくなった時に作られるし、むしろ義務や危機による行動の必要性が少なくなるに連れて、大きくなっているということなのです。戦争もその一つだといえなくもない。
特に日本人は、ヨーロッパの貴族社会のように何千年もの間、食うためのという必然性のない生活を知らないし、食うために働く時代しか経験して来なかったので、現代に起きている不幸な事件や満足を経験しない世代の不幸は、全て義務や危機からの解放によって起きていると言わざるを得ません。
例えば、満足ということ一つとっても、危機や貧困などのような渇望の対局として存在するのか、自分の希望や欲望を充足することとして存在するのか、これらの二つは、その満足を得るプロセスにおける精神の変遷は勿論のこと、満足そのものが与えてくれる感覚も全く違うものなのではないでしょうか。
義務や危機の発生するのを最小限にしようとするのは、人間の自然な行動ベクトルとして持っていることで、一方欲望を最大限にしようというのもまた人間の持つ自然な行動ベクトルだといえる。
もし義務や危機によるものと、欲望によるものとのバランスを取るようにしようとするのであれば、義務や危機による要因を増やすように、そして欲望によるものを少なくするように努めるようにすることが、バランスを取ることになると考えられる。
しかし、このような結論は、世の中で一般的にいわれていることを理屈っぽくいっているに過ぎない。何故なら、我を押さえて世のため人のために、尽くせという教えそのものだからです。
しかしこれでは、自分の欲を律することが善だということで、全てが解決してしまうことになる。
そんなことでは、解決しないことは分かっている。
もう一度飢餓時代のことを思い出さなければなりません。
つまり危機や義務による行動で精一杯の時代だった時、実はこの行動の発するところは、極めて自然な人間の欲望であったはずで、例えば飢えを凌ぐことや生活の安定などは、人間が生物として、生きていくための自然な欲望なのです。
行動の原動力である欲望そのものを増進したり抑制したりするように、コントロールしようとするのではなく、困窮の時代は生きていくために精一杯で、自分の欲や希望はままならなかったと述懐するのではなくて、それが欲望そのものであったというように、理解しなければなりません。
一方満ち足りた今は、社会のためとか困っている人のためとか何かを発展させるためというようなことを、自分自身の欲望と認識するようにすることや、次世代の子供達には教育によって、自分自身のパンのためだけを欲望として捉えるのではなくて、社会や他人や次世代のためのパンをも含めて、自分の欲望と認識できるする必要があるのです。
このような日本人にならなくては、尊敬される国には成れないし、それだけではなく、日本人一人一人の生き甲斐を取り戻して、幸せを生産できるように成れないのです。
今更、食べるものに飢えたり雨露を凌ぐのに大変さを経験して、今満ち足りている幸せを若い人に感じるように強制したところで、空しいことです。
人間の欲は限りないものです。それを無理に抑制すれば、どこかで爆発するし歪みが生じます。
質はともかく物理的満ち足りた社会が作れた日本は、一人の人間の欲望の持ち方を、体験と学習によって、作り替える必要がある。
そして、自分の中に危機意識や心地よい義務感を作るテクニックを身に付けて、自分を向上させたり飛躍させたり、そして社会に貢献することに、生き甲斐や幸せを感じて、前進することに辛さを感じない人になりませんか。
歴史を作る加害者になりましょう。
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